月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

10.聖地の風景



流れゆくハープの音色に耳を傾けながら、アンジェリークは思う。
闇の安らぎが心地よい、と。
つい先刻まで、夜の闇に強い恐れを抱いていたと言うのに。
闇が安らぎと共に司る『死』。人は、少なからずそれを恐れる。
でも、多くの人は気付いていないのではないだろうか?真に恐れているのは『死』ではなく、それと共に必ず訪れるもの、そう
―― 別れ
であるということに。
そして、それは、『生』ある人々に与えられる悲しい宿命であるということを。
愛しい魂を失うことへの悲しみ、悔い、憎しみ。
それらは皆、生きているからこそ、その心を苦しめる。

去り逝く魂達。
彼ら自身は、この透明な闇にいだかれて、おそらくはどこまでも、どこまでも、安らかなのであろう。

「クラヴィス様の司る闇はどこまでも、透明に、すきとおっているんですね」
瞬間、クラヴィスの瞳に僅かな驚きの色が浮かんだ。
思わず口をついて出た言葉に我に返りアンジェリークはクラヴィスを見る。
しかし、その時はすでに彼はいつもの無関心そうな態度で窓の外の闇をみつめているだけであった。

ハープの音が止むとアンジェリークはリュミエールの館を辞した。
馬車を出す、と言う水の守護聖に、酔い覚ましがてら歩いて帰ります、と、ひとり表に出る。
常春の聖地に淡くぼやける朧月。
十六夜とはいえ十分に美しいそれが、道行きの野に咲く白い花を青白く浮かび上がらせていた。
ずっと、忘れていた。
聖地の風景が、いや、宇宙が、こんなにも美しかったことを。
アンジェリークはまだ酔いに火照るほほに、夜風で少し冷えた手をあてて冷ます。
「さて、だいぶ酔いも覚めたし、明日も早いし、今日は帰ってねよっかな。そうしよっと」
今日はなんだか久しぶりに、ゆっくり眠れそうな、そんな気がする。
手を後ろに組むと、アンジェリークは足取りも軽く家路を歩き出した。

◇◆◇◆◇

「私も帰るとしよう」
クラヴィスが音も立てず立ち上がる。
見送るために立とうとするリュミエールを片手で軽く制すと、衣擦れの音だけを残し、その場を離れた。

『クラヴィス様の司る闇はどこまでも、透明に、すきとおっているんですね』
家路をゆきながら先程の女王補佐官の言葉を思い出している自分に対し、忌々しげに眉をひそめる。
いつかその声は、遥か遠い昔の幻へとかわっていた。
長い、金の髪の少女。闇をみつめ続けた、光の中の少女の声に。

―― あなたが、このどこまでも透明にすきとおる闇を司る限り、きっと私はそれを恐れたりはしない ――

あの日、月のない夜の夢の中でふたりの道は永遠に別たれたと思っていた。
そして、独り高みに在るひとの孤独を思い、抱きしめることさえできない無力さを常に感じていた。
しかし彼女は宇宙を支え、そしてそれを支える自分がいる。
『この宇宙で、私たちは共に』
彼女のその言葉通り、たしかに我々は共に在ったのだ。
気の遠くなるほど広い闇にも似た、この透明な宇宙の中で。
今になって痛いほどそれを感じる。
そして、長い任期が終わり、新たな女王が誕生したその時に、かの人は再び自分のためだけの人生を歩き出すはずであった。
幸せになって欲しいと思っていた。
にどと逢うことはなくとも。
いつか彼女がつかむであろう、普通の人間としての、普通の幸せ。
誰よりも、それを得る権利が彼女にはあったのではなかったか?

なのにそのひとは、そのひとの魂は今。
転生もかなわず、闇さえも存在しない虚無の中に在る。

「アンジェリーク」
目を閉じて天を仰ぐ闇の守護聖の足元に、聖地の月は、ただ暗い影を落とすのみ。


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